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武蔵野航海記

武蔵野航海記

「日本人のための憲法原論」を読んで 5

プラトンはポリスの伝統からではなく、天上の世界に存在するイデアから正義というものを引き出しました。

哲学的な思索をしてイデアを理解した人間は、何が正義かということが分っています。

だからこういう哲学者がポリスを支配すれば、そのポリスには正義が行われ、ポリスはかつての繁栄を取り戻すことが出来ると考えました。

プラトンは、市民はその哲学的な資質に応じた職業に就くべきだと考えます。

感じるまま・欲望のままに行動する人間は庶民として生産活動に従事すれば良く、少しは理性と節制がありその結果勇気を持つ人間は軍人になってポリスを防衛すべきです。

イデアを理解し叡智を備えた哲人は支配者になるべきなのです。

この哲人である支配者が一人であれば王政になり、複数であれば貴族政になります。

ただしプラトンがいう王政や貴族政は個人の哲学的資質に依存したもので世襲という考えはありません。

そして欲望のままに行動する庶民が数で政治を行うデモクラシーは、最低の制度だということになるわけです。

このプラトンの弟子がアリストテレスです。

彼はギリシャ北方のマケドニアに生まれ、あの有名なアレクサンドロス大王の家庭教師だった人物です。

師のプラトンは幾何学が大好きでしたが、アリストテレスは生物学が好きで、世界を生物学で説明しようとしました。

生成発展という原則で世界を説明しようとしたのです。

木の実は地面に落ちて芽を出し、ついには大木に成長します。

師のプラトンの主張するイデアは、天上で既に完成しているものですから、生成発展がありません。

だからアリストテレスはイデアなど無いと主張しました。

そして彼はイデアの代わりにエイドス(形相、eidos)を提唱しました。

エイドスは個別の事物の中に内在して、それを生成発展させる力です。

エイドスは木の中に存在し、木の実を作りそれを生成発展させて大木にして、目的を達成します。

宇宙もエイドスを持っており世界を生成発展させています。

アリストテレスはこのエイドスと魂を結び付けました。

すべての生物は魂を持っており、その中でも動物は感覚的な魂を持っています。

人間は肉体を持っておりその分だけ動物なのですが、この肉体の制約を乗り越えることが出来ると神になります。

つまり宇宙のエイドスは、その力で生物を生成発展させているのです。

世界は無生物から神へ向って今も動き続けているわけです。

アリストテレスの神は、オリンポスの神々のように憎みあったり姦通したりするような人間くさい神ではなくなり、哲学的な神です。

このように全ての物が神に向っており、一つの秩序を持っているという思想は、中世ヨーロッパに非常に大きな影響を与えました。

だから、ソクラレス →プラトン →アリストテレスにいたる系列の哲学者をヨーロッパ人は徹底的に若者に教育するのです。

このエイドスを学ぶことが学問をすることの目的であり、その結果として優れた人間ができます。

このような哲学的な勉強をするにはよく考えなければなりませんが、その前提として勉強が出来るような環境が必要です。

そして良い環境を作り上げるのがポリスの務めなのです。

ポリスこそ人間の善を実現する最も完全な社会です。

このようにアリストテレスは論を進めますが、プラトンのように哲学者を支配者にすれば良いというような単純なことは言っておらず、もっと現実的に考えています。

個々の人間は、多様性を持ち不平等に出来ています。

そこで富者や貧者など多様な市民に秩序をもたらす政体が必要だと政治体制を重視しているのです。

そしてその体制が良いか悪いかの判断基準は、「ポリスの目的が支配者と被支配者の双方に共通か否か」というものです。

支配者と被支配者が共通した価値観を持って一体感があるのが良い政治体制で、支配者と被支配者が別のことを考え反目しているのは悪いのです。

支配者と被支配者が共通した価値観を持って一体感がある国家体制を、ラテン語で res publicaと言い、これが英語のリパブリックになったのです。

アリストテレスは、ポリスの市民が互いに一体感を持っていれば良いと考えていて、支配者の数はさほど重要視していません。

一体感を持った良い政治体制には、支配者が一人の王政もあれば複数の貴族政も多数参加のpoliteiaもあります。

悪い体制にも、支配者が一人の僭主政、複数の寡頭制、多数のdemokuratia(民主制)があります。

そして現実的に考えれば、富裕層と貧困層に対する中間層の支配が良いといっています。

具体的には貴族政とpoliteiaの混合政体が良いとしています。

現実にそのモデルを求めればローマの政体になると思います。

元老院は貴族政で平民会はpoliteiaです。

伝統的なポリスの価値観がペロポネソス戦争のあと力を失い、「ポリス人間」だったギリシャ人が利己的になって行きました。

それにつれて、ポリスを真剣に支える市民がいなくなって、ポリスが衰退してきました。

これではいけないと様々な哲学者が、新しい価値観を模索しましたが、ついにアリストテレスになってリパブリック(支配者と被支配者が共通した価値観を持って一体感がある国家体制)にたどり着きました。

そしてこのアリストテレスの思想は様々なルートで後世のヨーロッパに大きな影響を与えています。

若者は学校でギリシャ語を学び彼の著書を読むことで彼の思想に触れます。

またアリストテレスの哲学はカトリック神学に大きな影響を与えたので、宗教を通じて彼の思想に触れています。

ギリシャの哲学はイスラム諸国で盛んに研究され、これがルネッサンス期にヨーロッパに再輸入されました。

ルネッサンスは、ギリシャ・ローマ時代の古典を再発見し、その時代への憧れから起きたものです。

そこで、アリストテレスなどのギリシャ・ローマの思想がルネッサンスの思想に大きな影響を与えているので、現代ヨーロッパはルネッサンスを通じてギリシャ哲学に接しているわけです。

さて、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者たちの願いと努力にもかかわらず、ギリシャのポリスは復活しませんでした。

ギリシャの北の辺境にあったマケドニア王国は、中心部のアテネなどから見たらギリシャとはとても思えないような田舎でした。

そのマケドニアが力を付けてきて、アレクサンドロス大王の父王の時にはギリシャ全土を実質的に支配するまでになりました。

アレクサンドロス大王の大帝国はごく短期間で瓦解し、その領土は彼の家老たちが分け取りしました。

マケドニアも家老の一人が王国を作り、それがギリシャの諸国に干渉していました。

その後マケドニア王国はつぶれましたが、今度はローマがギリシャ諸国の保護者を自認するようになっていきました。

ポリスの独立が失われ市民の貧富の差が拡大して中堅市民が消滅したことで、ポリスの実体は消滅していきました。

ギリシャ人はもはやポリスに参加することで精神的満足を得られなくなったので、どんどん内向きになって行きました。

こういう状態のときにゼノンがストア派の哲学を提唱しました。

宇宙はロゴスという自然法則に支配されていますが、人間もロゴスを備えており小宇宙であるといえます。

そして人間はこのロゴスに従って生きていけば精神的安定が得られるのです。

ストア派の哲学とは、情念や欲望を抑えてロゴス(理性)の命じる義務に従えば幸せになれるというものです。

ロゴスは普遍的なものですから、個々のポリスの習慣に囚われないもので、ストア派を信奉する者はポリス人間ではなく、世界市民なのです。

こういう考え方から自然法という考え方が出てきました。

つまり、個々のポリスの中だけで通用する法律を超越した、人類全体にあてはまる正義が存在し、それが自然法なのです。

このストア派の哲学はローマ人の間に急速に広がっていきました。

情念や欲望を抑えてロゴスの命じる義務に従うという考え方はローマ人の伝統的な生き方そのものだったのです。

また、ローマは小さな都市国家から版図を広げ、地中海の周辺を全て領土とする大帝国をつくりあげましたが、その中には様々な民族が含まれています。

様々な慣習や法を持つ多くの民族を支配するには、個々の法を超越した法体系が必要です。

そしてストア派の主張する「自然法」はローマ人がまさに求めていたものだったのです。

こうしてストア派の哲学は広大なローマの支配的な哲学になりました。

ローマ人は、建築・軍事・政治・法律など実務的なことに長じている民族で、芸術や哲学など抽象的なことは苦手だと自分で思い込んでいるところがありました。

ですから、芸術や哲学に優れていたギリシャ人を非常に尊敬し、その分野はギリシャ人に頼り切っていました。

少なくとも教育を受けたローマ人は全てギリシャ語が出来たバイリンガルでした。

上流のローマ人は子供たちにギリシャ人の家庭教師をつけて、その子供がある程度大きくなったらギリシャに留学させるというのが常識でした。

今の日本でも英語教育やアメリカへの留学が盛んですが、古代ローマ人のギリシャ文化の普及度合いはこの程度のものではありません。

ローマの若者がギリシャの哲学を学ぶのはごく当たり前のことだったのです。

さらにローマは支配下にある民族の有力者にローマ市民権を与え自分たちと全く差別無く扱っていました。

地方の市民権を持った有力者は子供にローマ式の教育を受けさせましたが、その中には当然ギリシャ哲学が含まれていました。

このようにして、ストア派哲学はローマの広大な版図の津々浦々に普及していきました。

ローマはイタリヤ中部を流れるチベル川の沿岸に出来た小さな都市国家から始まりました。

都市国家のことをラテン語でキヴィタス(civitas)といいますが、これはギリシャ語のポリスと同じような意味です。

ローマもギリシャのポリスと同じように初めは王政でしたが、別に元老院があり、これは各氏族の代表者を議員にしたものが始まりで、強い権限を持っていました。

最初からアリストテレスのいうところの王政と貴族政の混合政体だったのです。

紀元前6世紀末にローマは王を追放しました。

一般的には共和制が始まったとされていますが、変わったことは一人の王の代わりに任期一年の二人のコンスルを立てたことだけです。

コンスルとはどういうわけか日本語では執政官と訳されていますが、大統領のことです。

ローマの王は必ずしも世襲ではなく、元老院などの有力者の意向で決められたもので、いわば終身の大統領とでもいうべきものです。

その終身大統領たる王を、一年という期限に限定した大統領に変えただけですから、さほど大きな制度の変更ではないと私は思っています。

これを「王政から共和制に変わった」と大きな変化があったようにいったのは、後にユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が伝統的な体制を変更しようとしたことに反対した「共和派」でした。

王を追放した直後に平民会が正式な国家組織として認められましたから、ローマの政治は、大統領と元老院と平民会の三つの要素で行われたのです。

この時代のローマの国家体制を観察したギリシャ人は、ローマを「王政と貴族政と民主制の混合政体だ」としています。

このようにローマはその歴史の大部分が混合政体で、時代によりそのウエイトを変えていっただけなのです。

ローマの歴史で極めて重要なのが元老院です。

議員は300人~600人ぐらいでしたが、議事堂で議論していただけの存在ではありませんでした。

「元老院」という名称はなにやらひげを生やしたジイ様の集まりのように聞こえてあまりよい訳ではないと思います。

元老院議員は、戦争のときは将軍や将校として従軍したし、地方の行政の責任者として派遣されたりしました。

いわば実力者の集団でした。

元老院議員はローマ市民の選挙によって選ばれるのではなく、欠員が出れば元老院議員の話し合いで新しい議員を任命したのです。

彼らは保守的ではありましたが、新しい勢力が台頭するとその代表者を議員に任命したり、さらには新たに同盟国となった外国の有力者を仲間に加えたりしました。

元老院は、自分たちの力を維持するだけの柔軟さを備えていたのです。

元老院がローマの発展の原動力の一つだったことは疑いのないところで、欧米では今でも元老院への憧れは強いのです。

イギリスの貴族院は元老院にあやかったものですし、アメリカの上院は名称まで「元老院」です。

元老院のことをラテン語ではsenatusといいますが、アメリカの上院はsenateです。

このsenateが戦後になって日本にも導入されて参議院になったのですが、歴史的な背景が無いためにまるで機能していません。

元老院は長期にわたって強い力を維持しましたが、これは単に有能だったためだけではありません。

彼らはパトロンだったのです。

パトロンという言葉の語源はラテン語のパトリキです。

またクライアントという英語は、現在は「企業の顧客」などの意味に使われていますが、もともとはラテン語のクリエンテスです。

「パトリキ」は貴族という意味で、「クリエンテス」はものすごく大雑把に言えば「一族郎党」です。

この両者の関係の起源は良く分からないのですが、部族長と部族民の関係だったのかもしれません。

クリエンテスはれっきとした参政権を持つローマ市民で別にパトリキの家来や奴隷というわけではありません。

しかし、パトリキが戦争で捕虜になり莫大な身代金を要求されたときは、クリエンテスがお金を出し合って助け、クリエンテスが困ったときは、パトリキが親身になって相談にのり、自分の勢力を使って助けるというような関係です。

パトリキが大統領の選挙に立候補したようなときは、クリエンテスが総動員で選挙活動をします。

つまり、パトリキとクリエンテスが一体となった共同体の代表が元老院議員で、元老院はこれらの共同体の利害調整の場でもあったわけです。

ローマの平民は、参政権を持つ市民として平民会に問題を提起することも出来るし、クリエンテスとしてパトリキに援助をお願いすることも出来ました。

こういうパトリキとクリエンテスの関係を無視して、ローマの歴史を貴族と平民の争いの歴史だと考えてしまうと本質がまるで分からなくなってしまいます。

パトリキはクリエンテスを増やすことに熱心でもありました。

ローマ人は、元々は個人間の関係であったクリエンテスとパトリキの関係を、国家間にも応用して考えていました。

辺境の小さな部族国家がローマに庇護を求めてくると、ローマという国家がパトリキでこの部族国家がクリエンテスという関係になるのです。

現在のフランスは古代ローマ時代にはガリアと呼ばれていましたが、政治的には統一されていなくて、各地に小さな部族国家が散らばっていました。

このガリアをユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が征服してローマの版図に加えたのです。

一旦、ローマの支配下に入るとガリア人たちはローマの支配下にあることに満足して、独立運動など考えもしなくなりました。

そして、もともとはガリア語を話していた彼らは、ラテン語を話すまでになってしまったのです。

今のフランス語はラテン語の方言が変化したものです。

パリはパリシー族という部族国家の首都でしたが、カエサルとパリシー族の王とはパトリキとクリエンテスの関係を結びました。

またローマとパリシー部族国家の関係もパトリキとクリエンテスの関係だったのです。

当時のガリアはライン川の向こうから攻めてくるゲルマン人の襲撃に絶えずおびえていました。

ゲルマン人が攻めてくるとガリア人はローマに助けを求め、パトリキたるローマは大軍を送ってゲルマン人と戦い、その務めを果たしたわけです。

こういう関係を「ローマはガリアを植民地にして圧制を行い、経済的に収奪した」などと考えると歴史がフィクションになってしまいます。

確かにそういう要素もあったでしょうが、それは全体の一部に過ぎません。

余談ですが、戦前の日本と朝鮮の関係は、古代のローマとガリアの関係に似ていたと感じています。

またローマは、クリエンテスとなった弱小国の有力者にはローマ市民権を与え、王など最有力者はローマの元老院議員に任命したこともありました。

部族長が跡継ぎを教育のためにローマに留学させる時は、パトリキの元老院議員にその世話を頼んだりして、パトリキとクリエンテス関係を世襲にしたのです。

更に広大な版図をローマは「ローマ法」を使って統治しましたが、このローマ法は前にも説明したようにストア派哲学の自然法の考え方で作られた法です。

個々の民族の慣習を超越した人間の普遍的な価値観を目指して作られた法体系です。

パリシー部族国家は独自の部族の慣習に由来する法を持っていますから、パリシー族内部の紛争はこの慣習法で解決します。

しかしパリシー族が近くのエブロネース族と紛争を起こした時はローマ法が適用されます。

またローマから派遣されたガリア総督がパリシー族に不当なことをしたら、パリシー王はローマ市民として平民会や元老院に訴えることができます。

彼が元老院議員だったら、自らローマに出かけていって元老院内部で問題解決を訴えることもできます。

今まで述べたように、ローマ周辺の当初からの領土だけでなく、新に版図となった辺境の住民もローマと同じ価値体系が持てるような様々な仕組みがありました。

その結果、ガリア人(フランス人)、イベリア人(スペイン人)、トラキア人(ルーマニア人)は、一方的にローマに支配されているとは感じませんでした。

ローマという国家の運営に参加しているという一体感も持てたのです。

その結果、彼らはラテン語とは全く別の言葉を話していたのに、ラテン語を使うようになり、自らローマ人だと思うようになってしまいました。

このようなローマの体制を、共和制末期の有名な政治家で帝政に反対して暗殺されたキケロは、次の様に説明しています。

尚、私は「共和制」や「帝政」という言葉は実態に合わないので使いたくないのですが、他に言葉がないのでやむを得ず使います。

「res publicaは単に人々が集合したというものではない。

consensus juris(正義の合意)によって、また利益の共同によって結ばれた結合である」

res publicaとは英語でいうリパブリックです。

またこれはアリストテレスが提唱している、「支配者と被支配者が共通した価値観を持って一体感がある国家体制」と同じ考え方です。

キケロはストア派哲学を信奉していましたから、ギリシャ哲学の伝統を受け継いでいます。

ですからその彼が、アリストテレスと同じ思想を持つようになったのも当然かもしれません。

このように、ギリシャ・ローマの思想が考えたリパブリックという政治体制は、「支配者と被支配者が共通した価値観を持って一体感がある国家体制」というものです。

君主を認めるか否かとは直接には関係がありません。

ギリシャ人のポリスの利益を最優先した考え方からギリシャ・ローマの政治思想は出発しました。

それが、この狭いポリスの中だけで通用する価値観では上手くいかず、異なった価値観を持つ運命共同体を結びつける普遍的な価値観を追求するようになりました。

そしてついには、広大なローマの版図を統合するリパブリックという体制に到達したわけです。

ローマは紀元前3世紀の前半にイタリア半島を統一し、更に海外に膨張しようとしたところで、カルタゴと地中海の制海権を争うようになりました。

これがポエニ戦争で120年間断続的に戦いがあり、最終的にカルタゴを滅ぼしたのが紀元前146年です。

そしてその版図はイタリヤ半島の他、スペイン・北アフリカ・シチリヤ島・ギリシャという広大なものになりました。

ローマが拡大するにつれてローマ社会も変わっていきました。

一番の変化はイタリア本土の産業が空洞化したことです。

新たにローマの領土になったシチリヤ島や北アフリカは、イタリア半島より農業に適した土地でした。

ここの安い小麦が流れ込んできた結果、イタリア本土の農業が競争に負けて、穀物栽培をやめ大規模経営による果樹栽培に転換してきたのです。

その結果、それまでローマを支えてきた中核市民であった農民が没落し、ルンペンとなって首都ローマに流れ込んできました。

その一方で富裕層は土地を買い足して大規模農場を経営するようになりました。

ローマ軍の中核はローマ市民だけで構成する軍団でしたが、兵役はローマ市民の義務で、武器自弁で集まるのが原則でした。

ところが市民の多くが貧しくなったので、ローマは兵役を徴兵制から志願制に変え、給料を払うようになりました。

ローマ軍がアマチュアからプロに変わっていったのです。

ローマ軍がアマチュアだった時は、元老院議員も軍隊の幹部になって実際の戦闘に参加し、政治に不可欠な軍事的知識も豊富にありました。

しかしローマ軍がプロの集団になるにつれて、元老院議員が将校や将軍になることがなくなり、軍事的知識がなくなりました。

軍事的知識は政治に不可欠ですが、それが無くなったので元老院の指導力が著しく低下しました。

この辺の事情は、現在日本の政治家に軍事知識がゼロなので、素人の政治しか出来ないことを見てもお分かりになると思います。

先祖伝来の土地から離れ、着の身着のままで首都に流れ込んだ者たちの一部は兵士になりましたが、兵士にならないでゴロゴロしていた者も参政権を持った市民です。

そこでローマの支配層も彼らを無視できず、穀物の無償配布やコロセウムでの剣奴の戦いという娯楽を提供して機嫌をとりました。

このような「パンとサーカス」の施しを受けたルンペン市民が20~30万人程度いて社会の大きな負担になりました。

ローマは小さな都市国家からスタートしましたから、政治は全てローマ市内で行われます。

ところがローマ市民権をもった者の多くは広大な領土に散らばっており、実質的に平民会に参加することが出来ません。

ローマの広大な版図に住んでいる市民に一体感を持たせていた様々な仕組みの内、ローマ法という普遍性を持った法体系やパトリキとクリエンテスの関係はまだ機能していました。

しかし、元老院や平民会という議会制度が脱落してきたのです。

そのために現状を改革しようというグループと伝統的な制度が一番良いという保守的なグループが対立し、ローマは内乱の時代を迎えました。

そしてついにユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が登場します。

カエサルは戦えば必ず勝った名将で、文章や演説がうまく、エジプトの女王クレオパトラと派手な恋をするなど逸話の多い人物です。

優秀な男の多くが彼に心酔し、多くの女が彼に愛されようとして辛抱強く順番を待っていたということですから、非常に人間的魅力に富んだ人物であったようです。

彼は大して裕福ではないが昔からの名門貴族の家に生まれ、政治家としての道を歩みました。

そしてローマ社会を観察して、ローマ社会の欠陥に気が付きました。

ローマは昔から王政・貴族政・民主制を混合した政体ですが、広大な領土を統治するには小さな都市国家時代の体制は改めるべきだと考えたのです。

それは王政のウェイトを大きくして効率の良い政治を行おうということです。

これは元老院の権限が縮小されるということですから、元老院議員は大反対しました。

そしてカエサルに対抗する将軍としてポンペイウスを担ぎ出したのです。

カエサルとポンペイウスは激しく戦い、カエサルが勝ちました。

ところが勝ったカエサルは、自分の愛人の息子であったブルータスに暗殺されてしまいました。

ブルータスとその仲間は「独裁者を倒し、共和制を守った」とローマ市中に触れて回りましたが、市民の反応はしらけたものでした。

元老院は一般市民から見放されていたのです。

その後カエサルの跡目を、一の子分を自認していたアントニウスとカエサルの甥のオクタビアヌスが争い、オクタビナヌスが勝ちました。

この一連の内乱の時の元老院側の指導者が前に触れたキケロです。

彼は「res publicaは単に人々が集合したというものではない。

consensus juris(正義の合意)によって、また利益の共同によって結ばれた結合である」とリパブリックを定義した人物です。

そして「このリパブリックを独裁制によって破壊しようとするのがカエサルやその後継者だ」と主張しました。

リパブリックと共和制を結び付けようとしたのです。

しかし彼の主張は今から振り返ってみると少し違います。

彼は元老院が正義を代表していると考えましたが、元老院議員はローマ市民が選挙で選んだわけではありません。

仲間内で選んだに過ぎず、後世の民主主義の原則とは違うものです。

キケロは「貴族政は良いが、王政はいけない」と主張したのです。

そしてその根拠は「それがローマの伝統だから」ということです。

この主張は近代デモクラシーの根拠である「人民主権」とは別物です。

ローマの伝統である元老院に固執したキケロは、アントニウスに暗殺されました。

しかし、キケロの著作は後世のヨーロッパで盛んに読まれ、リパブリック=共和政=君主がいないこと という図式が出来上がりました。

そして明治になってこの発想がはるか極東の日本に輸入され、古代ローマのリパブリックは近代ヨーロッパの民主制と同じであり、リパブリックとは君主を排除した政治制度であると誤解されるようになったのです。

もっともこの図式が本場のヨーロッパでは必ずしも通説ではありません。

それは革命直後のフランス人が、ナポレオンを「リパブリック」の「皇帝」に選んだことからも分かります。

再度言いますが、リパブリックとは君主を否定した政治体制ではなく、支配者と被支配者が同じ価値観を共有する社会体制をいうのです。

ですからリパブリックの反対語は王政や帝政ではなく、独裁制です。

さて、ライバルのアントニウスを倒したオクタビアヌスはローマに凱旋しました。

そして、・・・・・新しいことは何もしなかったのです。

元老院はそのままでしたし、平民会も開かれました。

オクタビアヌスはかねてから元老院議員でしたが、そこでプリンチェプスに選ばれました。

これは昔からあるもので、「第一人者」という称号です。

つまり元老院議員のなかで一番尊敬されている人です。

また彼は大統領(執政官)選挙に立候補し当選しました。大統領も昔からある役職です。

また凱旋将軍(インペラトール)という称号を与えられました。

このようにオクタビアヌスが得た称号・役職は以前からあるものでした。

これらの役職を兼ねることによって必要な力を手に入れることが出来たのです。

勿論、オクタビアヌス自身も、元老院議員も一般市民も、以前とは政治の実態が大きく変わった事は分かっていました。

しかしオクタビアヌスが伝統的なリパブリックを変えるつもりがない、すなわち伝統的な正義を無視して専制政治をしようとしているのではないことを知って安心したのです。

そしてローマの政治は安定し、経済は繁栄に向かいました。

アウグストスや彼の後継者は「朕はこの国の主権者であるぞ」と言ったことはありません。

「カエサル」とか「インペラトール」と名乗っていました。

「インペラトール」とは凱旋将軍のことで昔からある称号です。

これを名乗ることで、自分が軍隊の最高司令官であることを宣言したのです。

「カエサル」というのはユリウス・カエサルの苗字で、彼の名声にあやかりたいと名乗ったのです。

「インペラトール」はなまって英語の「エンペラー」になりました。

「カエサル」もドイツ語の「カイザー」やロシア語の「ツアー」になりました。

そしてそれらの言葉を明治になって日本人は「皇帝」と訳したのです。

「皇帝」は支那の政治用語で、天から地上の政治を任された者です。

一方の「インペラトール」は敵を撃破した将軍に、市民が感謝の気持ちをこめて与えた称号です。

これらの言葉を与えた者が全然違い、その意味合いも全く違います。

伝統的な言葉にはその民族の考え方が結晶しています。

それを「どちらもその国で一番偉い人だから同じだ」としてしまうとその言葉が本来持っている深い意味が分らなくなります。

「共和政」にしてもそうで、リパブリックを君主の存在を否定する意味に使ったのはキケロですが、それは彼の政治的立場を宣伝するために本来の意味を捻じ曲げて使用したのです。

一方、日本語の「共和」は支那の古典から明治人が探し出してきた言葉だと言われています。

遥か昔、支那のどこかの国で共白和という者が、王を追い出して自分たちが集まって政治をしたということからつけたのです。

こうなるとリパブリックの本来の意味が消えてしまいます。

さて、ローマという国家が果たさなければならない一番大きな仕事は、外敵と戦うことです。

ライン川とドナウ川の北にはゲルマン人がいて隙を見て絶えず進入してきます。

またギリシャのエピロスやカルタゴとも戦いました。

これらの戦争にかつては元老院議員が指導的な役割を果たしていました。

しかし、後には彼らが軍事的な能力を失ってきましたから、「インペラトール」たちは職業軍人を使うようになりました。

このようにして元老院の力は減り続け、「インペラトール」の権力は増え続けました。

そして彼らの権力の基盤が軍事力になっていくとともに専制政治を行うようになっていきました。

そしてローマは次第にリパブリックの実体を失って衰退していき、ついにはゲルマン人の侵入により滅びました。

社会が不安定になると、ちょうどペロポネソス戦争後のギリシャ人の精神が内向きになって行ったのと同じように、ローマ人も社会への関心を失い内面的になって行きました。

また一般の庶民は、キリスト教に惹かれていきました。

キリスト教と従来のギリシャ・ローマの思想とは基本的なところで違います。

ギリシャのポリスでは、人間のいろいろな能力を調和させることができると考えていました。

一方、キリスト教には「原罪」という考え方があります。

人間はエデンの園で知恵の実を食べたことにより、調和が崩れてしまい、なすべきことが出来ず、なすべきでないことをしてしまう無力な存在になってしまいました。

この無力からは自力では脱出できないから、神にすがるしか方法がないのです。

誤解を恐れずにいえば、「自力本願」と「他力本願」の違いでしょうか。

また、ギリシャ・ローマには、市民は積極的に政治に参加すべきだという考え方があります。

ギリシャの全盛時代には、ポリスの利益を最優先にすべきだという「ポリス人間」という形をとりました。

ローマでは広大な領土に住む様々な民族の価値観を統合する「ローマ法」やパトリキ・クリエンテスの関係によって、ローマとの一体感を維持しました。

ところがキリスト教は、現存の秩序をそのまま受け入れ服従することを勧めました。

イエスは「神の物は神に、カエサルの物はカエサルに」と言っています。

キリスト教の受動的服従の教えと言うのは、「全ての人は上にたつ権威に従うべきである。なぜなら神によらない権威は無く、存在している権威は全て神によって立てられているからである」というものです。

政治権力が良いものだからではなく、神の教えによって権力に服従するわけです。

これは王権神授説そのものです。

4世紀始めに、コンスタンティヌスという「インペラトール」がキリスト教を公認し国教にしたのは、この権力に対する服従の教えに喜んだからです。

ヨーロッパ人が権力に抵抗するようになったのは、ルネッサンス期になって、ギリシャ・ローマからの伝統が復活してからです。

アウグスティヌス(354~430)はキリスト教の司教で、ローマが消滅しそうになっている時期にキリスト教の信仰の基礎を固めた大思想家です。

彼の書いた「告白」は自分の精神的遍歴を書いた大変有名なものですが、それによると、北アフリカの現在のチュニジアのあたりに生まれ、若いときは酒色にふけり泥棒までしたそうです。

その後マニ教という中近東から来た宗教の信者になってローマに出てきました。

そしてギリシャ哲学に親しみ、最後にキリスト教に改宗しました。

だから彼のキリスト教の信仰はギリシャ哲学に繋がっています。

彼は、自分を省みないでひたすらに神を愛する人間が住む「神の国」と自分を愛する人間が住む「地の国」の二つがあるといいます。

「神の国」は最後の審判のときに現れそれまでは目に見えません。

そして現世に存在するのは「地の国」ですが、「神の国」に繋がっているのが教会だというわけです。

そして「地の国」には平和がもたらされなければなりませんが、アウグスティヌスはギリシャ・ローマの伝統から来るリパブリックの考え方によって実現しようとしました。

市民が共通の正義によって結合している国家です。

ただしその正義の内容が、ローマ人が考えたものとは変わってきています。

従来のローマ人の正義はストア哲学に基づく自然法の体系でした。

一方、キリスト教は、人間は「原罪」により無力で自力では良いことが出来ない存在です。

良いこと・正義を行うには、キリスト教の信仰がなければなりません。

つまり、キリスト教の信仰を持つ信者が神の助けにより、共通のキリスト教の正義によって一体感をもった「地の国」を作るべきなのです。

このようにして、ギリシャ・ローマのリパブリックの考え方がキリスト教に取り入れられていきました。

アウグスティヌスの思想は12世紀までの800年間にわたってカトリック教会の中心的な神学でした。

そして12世紀に十字軍によるイスラム社会との接触などによって、イスラム文化がヨーロッパに流れ込んできました。

イスラム社会では古代ギリシャ哲学の研究が盛んで、特にアリストテレスの人気が高かったのですが、彼の哲学がヨーロッパに再輸入されたのです。

アリストテレスは生成発展という原則で世界を説明しようとしました。

木の実は地面に落ちて芽を出し、ついには大木に成長します。

エイドス(形相)は個別の事物の中に内在して、それを生成発展させる力です。

エイドスは木の中に存在し、木の実を作りそれを生成発展させて大木にして、目的を達成します。

宇宙もエイドスを持っており世界を生成発展させています。

生物は魂を持っておりますが、その中でも動物は植物より優れていて感覚的な魂を持っています。

人間は動物より優れていて、理性を持っているので神に近い存在です。

宇宙のエイドスはその力で生物を生成発展させており、世界は無生物から神へ向って今も動き続けているわけです。

アリストテレスの体系は、無機質 → 植物→ 動物→ 人間→ 神へと下から上へ展開します。

この下から上への段階的な世界観は、中世という身分制の社会を説明するのに都合の良い体系だったので、当時のヨーロッパ人の人気を得ました。

ところが、イスラムから伝わったアリストテレスの思想はカトリック教会の世界観に抵触する部分があり問題があったのです。

人間の魂の最も知性的な部分は普遍的な神の知恵の投影だというのがイスラム式のアリストテレス解釈でしたが、これは霊魂が不滅だという教会の教えと矛盾するのです。

またアリストテレスは、質料(木の実に相当するエイドスの材料)は不滅で世界は永遠に続くと考えますが、これもキリスト教の教えに反します。

神が世界を作り、この世は最後の審判のときに終わるというのがキリスト教だからです。

そこでローマ法王は、アリストテレスの著作を発禁にする一方、トマス・アキナス(1225~1274)にアリストテレスの解釈のし直しを委託しました。

トマス・アキナスはドミニコ修道会の修道士でしたが、この修道会は富を得て腐敗した修道院に反発して新しく出来たもので、優秀な学僧を輩出していました。

そこでトマスは、アリストテレスの解釈の問題を含めて、当時の神学上の問題点を整理して、新しく神学の体系を作り直しました。

彼の作り上げた神学は、その後のカトリック教会の理論の主流になり、20世紀半ばまでカトリックの公式理論でした。

その功績でトマスは14世紀には聖人に列せられたのです。

トマス・アキナスは独創的な思想家ではなく、既存の思想を整理し体系化することが得意な人でした。

理性と信仰の問題はキリスト教の初めからあった問題で、信仰の優位を解くのが常でした。

トマスは、理性にもその地位を認め信仰との間に調和を作り出そうとしました。

神こそ真理の源泉であり、理性は信仰の初期段階だとしたのです。

神の存在や神の世界創造は理性で分かるとしています。

これは現代の日本人もある程度納得できると思います。

理屈で考えて積極的に神の存在を肯定もできませんが、否定も出来ません。

しかし存在してもおかしくはないと考える方は多いと思います。

その一方、三位一体とか最後の審判とかの教義は理性で分からず、啓示によらなければならないとしています。

理性の及ばぬところから信仰が始まるのです。

アリストテレスの解釈に関しては、全くの質料(無機質)から魂を持った植物・動物、個別の魂を持った人間、天使、神という目的に向って進む秩序があるという点ではアリストテレスの哲学を変えていません。

そうしてこれらの秩序は神が作ったものだとして、キリスト教との整合性を持たせました。

彼は、低いものは高いものに奉仕することによって、自分の本質を完成することが出来ると考えました。

植物は動物に、動物は人間に、人間は神に奉仕すべきなのです。

そのなかで人間はまさに特殊な位置を占めています。

人間は理性を持ち自発的に行為しますから、合理的秩序を作り上げることができます。

神は人間に合理的な秩序を作る能力を与えたのです。

そして、神が定めた理性的秩序が法なのです。

この神が定めた法のなかで、啓示によって人間に教えられたものが聖書です。

これは人間の内面の問題ですから教会の所管です。

一方、人間の現世での生活に関して神が定めたのが自然法で、これは神が人間の理性による判断にゆだねた物です。

社会の仕組みに係わるものですから世俗の政府の管轄です。

神は、現世に正義が行われ平和であるように望んでいますから、神が人間に与えた自然法は正義を守るためのものです。

国家は、神が定めた法を行い信仰深い人間がその価値観を共有することにより正しいものとなります。

トマス・アキナスはギリシャ・ローマからの伝統であるリパブリックの考え方をキリスト教の教えで説明し直したわけです。

人間は理性を持っていますから、教育が適切になされれば神が定めた正義を正し理解することができます。

そしてその教育をするのは教会です。

個々の人間が正義を持っていますから、国家の権威は国民に由来します。

しかしトマスが生きていた時代はすべて君主国でしたから、彼は君主制を考えていました。

ただし君主は法による統治をしなければなりません。

トマスはリパブリックと君主制は両立すると考えていたのです。

君主が神の法(自然法)に従わないときは、国民には抵抗の権利と義務があると考えていました。

近代のデモクラシーにかなり近づいてきたわけです。

ただし国民に暴虐な君主への抵抗を命じることができるのは教会です。

トマスはキリスト教の神父であるから当然の結論ですし、低いもの(世俗の君主)は高いもの(ローマ法王)に従わなければならないという理屈からもこうなります。

いままで述べてきたように、ローマが滅び去った後も「支配者と市民が正義を共有して一体感がある政府が正しい」というリパブリックの考え方はキリスト教の教理に入り込んで生き続けました。

やがてルネッサンスが起こり、古代ギリシャ・ローマの伝統が復活してきました。

また宗教改革が起こり、従来のカトリックの信仰に大掛かりな修正が加えられました。

このプロテスタントの信仰からデモクラシーと資本主義の精神が起きたことは、小室博士がこの「日本人のための憲法原論」で説明した通りです。

しかし、プロテスタントの信仰だけでなく、その根底にはギリシャ・ローマの伝統が存在しています。

小室博士がこの点を書いていないことに私は違和感を持ったのです。

近代デモクラシーの考えからの中でも重要なものであるリパブリックの考え方は古代ギリシャ・ローマからの伝統です。

リパブリックを君主の存在を否定する意味に使ったのはキケロですが、それは彼の政治的立場を宣伝するために本来の意味を捻じ曲げて使用したのです。

一方、日本語の「共和」は支那の古典から明治人が探し出してきた言葉だと言われています。

遥か昔、支那のどこかの国で共白和という者が、王を追い出して自分たちが集まって政治をしたということからつけたのです。

こうなるとリパブリックの本来の意味が消えてしまいます。

「自由」や「平等」というものもギリシャ・ローマの伝統とキリスト教が結合して出来た考え方です。

ヨーロッパの「自由」には二つの意味があります。

ギリシャ・ローマでは、「強制されるのではなく自発的にポリスの活動に参加する」という意味で使われていました。

近代になると、「権力の干渉をはね返す」という意味です。

「自由」という考え方は支那にも日本にもありませんでしたから、明治人は「自由」という言葉を発明しました。

しかし本来の意味が分っていませんから、「勝手気まま」という解釈が定着してしまいました。

「平等」についても、リパブリックの考えの中にある「支配者も市民も共通の法に従う」という考え方がベースになっています。

それとキリスト教の「神の前の平等」が結合したもので、「どんな偉い人も貧乏人も同じく神が定めたルールに従う」という意味です。

これを日本では「一杯のかけそばを三人で分ける」という意味に使われています。

まさに論語に出てくる「乏しきを憂えずして、等しからざるを憂う」です。

キリスト教の神が「自由」や「平等」などの「基本的人権」を人間に与えた時は、「私の教えに従うなら呉れてやる」と条件をつけました。

ところが日本国憲法では「人間が生まれながらに持っている」ものとしています。

日本にはキリスト教は普及していないし、仏教や神道にはこのような発想はありませんから、こう表現するしかなかったのでしょう。

この言葉を素直に解釈すれば、「DNAに組み込まれている」ということになります。

そうなると、敗戦でアメリカ軍によって「基本的人権」がもたらされる以前は、日本人はDNAに反して行動していたのか という疑問が沸いてきます。

神の教えに反しない範囲で基本的人権は有効だという制限が日本にはありません。

ですから「基本的人権」に関して様々な珍解釈が生まれるのです。

日本人は、「リパブリック」「自由」「平等」「基本的人権」というデモクラシーの基本的な概念をなにがなんだか分らないままに使用しています。

自分たちの伝統にない考え方を安易に輸入してきたから、こうなったのです。

同じことは儒教についても言えます。

忠孝という儒教の基本的な教えも日本人は誤解しています。

「忠」とは日本人は主君に対する道徳だと勘違いしていますが、本場では主君だけでなく、あらゆる人間関係の道徳を指している言葉で、「誠実」に近い言葉です。

また主君に対する「忠」と親に対する「孝」では、日本人は「忠」を優先するべきだと考えています。

「大義、親を滅す」というわけです。

しかし本場では「孝」が「忠」に優先し、親のためには主君を犠牲にするのが正しいのです。

儒教の「革命」は支配者である皇帝の家系を替える行為を言いますが、これは儒教の価値観を維持するために極めて大切なものです。

儒教の価値観を守らない王朝は取り替えなければならないのです。

ところが日本では「革命」を否定しています。

ですから日本の儒教はまがい物です。

日本の儒教がこのようになったのも、儒教が日本人とは異なる発想で成り立っているからです。

儒教は日本に入って千年以上になりますが、結局日本人は理解していません。

小室博士は外国の思想であるデモクラシーを日本人に理解させようとして、それがキリスト教から生まれたものであることを説明したのです。

しかしデモクラシーはキリスト教だけでなく、ギリシャ・ローマの伝統から来たもので、その理解はキリスト教以上に困難です。

キリスト教であれば、信者となって勉強すれば身につくかもしれませんが、民族の伝統はその中に身を浸さなければ分りません。

結局、日本人がデモクラシーを理解するのは無理なのです。

ギリシャ人は、ポリスという小さな運命共同体を守ることがもっとも正しいと考えることから始まりました。

しかし、最終的に「支配者と市民が共通の正義を持ち一体感をもった国家に参加する」というリパブリックの思想に到達しました。

支那人の社会は「宗族」という運命共同体が基本の社会ですが、それを統合するために儒教を作り上げました。

しかし、日本人はこれらの思想に相当するような価値観を作らず、儒教やデモクラシーを輸入して間に合わせてきました

なぜ、こうなってしまったのでしょうか。

日本人の哲学的能力が低いわけではないと思います。

私は日本人をとりまく環境に原因があると思います。

ギリシャの周囲には、古くからの文化を持つ大勢力が複数ありました。

エジプトやメソポタミア、ペルシャ、さらにはフェニキア人もいて、思想というのは相対的なもので、外国の思想が絶対だと思うような環境ではなかったのです。

支那の古代王朝は遠隔地との貿易を行う商社ともいうべきもので、各地の都市はその支店でした。

王のいる本社と各支店、さらにはそれらを結ぶ商業ルートという点と線を支配していただけの全国組織でした。

商売に目的を絞ったものですから、最初から種族や宗族の違いを超越した組織だったのです。

時代が下って王朝が、小さな宗族がひしめいている周辺の田舎を含めた「面」を支配するようになって利用した思想が儒教でした。

ですから儒教は、宗族という小さな運命共同体を統合することを目的とした体系なのです。

古代の日本人は、「氏」という血縁関係とは無関係に共に働く仲間を一族だと考える小さな運命共同体に分かれていました。

その日本が統一国家を作ろうとしたのは7世紀というかなり遅い時期で、支那では儒教の体制が完成していました。

当時の支那は東アジアでは圧倒的な存在で、日本の国力とは比較になりませんでしたし、支那と対抗するような大勢力は他にありませんでした。

また、儒教に対抗するような政治思想も東アジアになかったので、当時の日本人は、儒教の思想も相対的なもので他の思想もありうるとは考えられなかったのです。

儒教を絶対視してしまい、他の思想から儒教を客観的に評価することができませんでした。

しかし儒教の価値観は日本の文化の基本的なところと違うので、結局儒教を床の間に飾り実際は別の原則で行動するようになってしまいました。


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